こないだの日曜日、母が他界しました。
ここ数日忙しかったのでアップできなかったのもありますが、母の容態がよろしくなかったからでもありました。
昨夜が通夜、今日が葬儀でした。
一昨年の年末「尋常ではない疲労感と、思うように体が動かない違和感があって、相対的に体が重く感じる」と不調を告白しまして。
原因が分からないまま昨年の夏検査入院をした結果、筋萎縮性側索硬化症(ALS)(指定難病)であると診断されました。
全身の筋力が急速に衰えていき、手足の自由が利かなくなり、嚥下機能、呼吸や会話までもが自力でできなくなるが、脳だけはしっかりしているといいます。
つまり、自分で何もかもできなくなるが、頭は冴えているという残酷な状態になる訳です。
進行の過程で手足の自由が奪われ座位が苦しくなるので寝たきりになり、固形物はもちろん水も飲み込むことが難しくなり、ろれつが回らなくなり会話(=コミュニケーション)ができなくなります。
そうなると移動は「電動車椅子」、栄養補給は「胃瘻」、呼吸は「気管切開を経て人工呼吸器」、コミュニケーションは最後まで筋肉の衰えが弱い瞼の筋力を使って「意思伝達装置」を使っての会話、そして24時間看護を受ける生活になります。
母はそれらを拒みました。「延命処置は受けない」と言い続けました。
世の中に特効薬はなく、病気の進行を遅らせる薬しかありません。
この病気の宣告を受けた時、僕も同席してましたが、相当なショックを受けたと同時に「死」を受け入れる覚悟をしたように見えました。
それまで健康だっただけに不思議で仕方ありません。
なぜ母がこんな難病になってしまったのか。
ALSと分かってから「何かやっておきたいことはないか?」と再三尋ねても…特にご馳走を食べたいとか、どこかに行きたいとかはなく、家で静かに余生を過ごすことを希望しました。
息子4人を育て上げ、父のこと家のことを最優先し、自分のことは常に後回しにしてきた母らしい選択でした。
それから1年半、見る見るうちに病状が進行して「要介護5(=最大)」になり、再度「延命処置」について問いただしても拒否しました。
台所に立ったことのない父が慣れない手つきで食事の用意をしていると聞き、実家へ何度も手伝いに行き、母の病状を見てきましたが、だんだん痩せていく母を見るのは辛かったです。
先月から会話が聞き取りにくくなり、手足が完全に動かせなくなり、痰が出せなくなったり。
今月に入って血中酸素濃度が低くなり、酸素吸入をしつつ呼吸はしてるが意識がなくなり。
肺の筋肉も低下して、二酸化炭素が十分排出できなくなり。
12月5日の夜、ついに息を引き取りました。享年71歳でした。
ボクら息子4人にとって母は偉大であり、いつも多大なる愛情を降り注いでくれました。
突然難病になりこの世からいなくなったことが未だに信じられません。
思い出は山のようにあり、ここではとても語り尽くせませんが、時間をかけてゆっくりゆっくり振り返りたいと思います。
今は心から感謝あるのみです。
あなたの息子で幸せでした。
今までありがとう。そしてお疲れ様。
合掌…
(山陰本線/八鹿駅)
posted by 桂 しん吉 at 20:43|
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